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松江城のお殿様 三代目藩主

つづき。



若くしてこの世を去った息子忠氏の死に報いるため

吉晴は全精力を松江城築城に注ぎました。


しかし、1611年、69歳でその生涯を終えます。

その数ヶ月後、5年に及ぶ大工事を終え松江城は完成しました。


関ヶ原以降、隠居の身でありながら藩を支えてきた吉晴亡きあとは

正当な藩主、孫の三之介が表舞台に現れます。


三之助は 堀尾忠晴 と名を変え指導者として奮起するのでした。

若干13歳のお殿さまです。




そのころ、徳川家と豊臣家の間で

またしてもゴタゴタが起ろうとしていました。


家康は三男 徳川秀忠 に将軍職を譲りました。

これが豊臣方には面白くありませんでした。

次期将軍は 豊臣秀頼 のハズだったからです。

秀頼の母、 淀殿 は激怒しました。


お互いに相手を討つべし、と考えていた豊臣・徳川両家は

戦う正当な理由を探していました。



ところで、豊臣家は秀吉の供養として

神社やお寺の修理などを行っていました。

その中に「方広寺」というお寺がありました。


方広寺の釣り鐘にはたくさんの文字が打ち込んであり

家康は「国家安康」「君臣豊楽」という文字があることを知らされます。


「家康を切り裂き、豊臣が繁栄する。」

家康はこう読み取り、豊臣家は徳川家を滅ぼそうとしている、と

言いがかりをつけました。

仲直りしたければ、秀頼の母親の淀殿を人質に差し出して

秀頼は大坂城から出ていけ、という荒っぽい要求を突き付けました。


豊臣方はもちろん拒否。

徳川家の宣戦布告と受け止め、戦の準備を始めます。



そして、「大阪冬の陣」へと向かいます。

その戦に出雲国の若き藩主、堀尾忠晴も参戦するのでした。





つづく。






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