月山富田城のお殿様 当主をめぐる混乱
つづき。
室町幕府3代将軍、足利義満 (あしかがよしみつ)が
南北朝の統一を果たすと
鎌倉時代後期から続いた守護大名たちの反乱は収束していきました。
しかし、それも一時的なものでした。
6代、足利義教 (あしかがよしのり)が暗殺され、
7代、足利義勝 (あしかがよしかつ)が9歳で死去。
これらの事態が幕府の弱体化、守護大名の増長につながり
さらに政治に無関心な将軍
8代、足利義政 (あしかがよしまさ)へと続きます。
政治に全く興味を示さなかった義政は早くに隠居を考えます。
しかし、跡継ぎがいなかったため
出家していた弟、
足利義視 (あしかがよしみ)を次期将軍にたてました。
ですがその後、正室との間に男児が誕生すると、
その子 足利義尚 (あしかがよしひさ)を
将軍にしようとする動きが起こります。
当然、義視はこれに反発。
幕府内は義尚派と義視派に割れてしまいました。
生まれたばかりの義尚を将軍に押すのは
正室 日野富子 (ひのとみこ)。
そして、山名宗全 (やまなそうぜん)というエリート大名でした。
一方、次期将軍を約束されたはずだった義視を支えたのは
こちらもエリートの守護大名 細川勝元 (ほそかわかつもと)でした。
現将軍の義政は、というと
どちらにも決めない曖昧な態度をっとていました。
将軍家が跡継ぎ問題でもめている中、
有力大名の中でも同じ問題が起こっていました。
畠山氏や斯波氏も後継者争いのため
それぞれ身内同士で対立していたのです。
そして、彼らが頼ったのもやはり
宗全であり勝元でした。
世は将軍家をはじめ諸国の大名たちを巻き込み
この2人を中心に回り始めたのです。
そんな中、畠山氏は もめにもめた末、
一方に追討令が出され、武力衝突が起きてしまいます。
そして、これをきっかけに京は東西に分かれ
一触即発の状況へと追い込まれていくのでした。
つづく。
ブログ

室町幕府3代将軍、足利義満 (あしかがよしみつ)が
南北朝の統一を果たすと
鎌倉時代後期から続いた守護大名たちの反乱は収束していきました。
しかし、それも一時的なものでした。
6代、足利義教 (あしかがよしのり)が暗殺され、
7代、足利義勝 (あしかがよしかつ)が9歳で死去。
これらの事態が幕府の弱体化、守護大名の増長につながり
さらに政治に無関心な将軍
8代、足利義政 (あしかがよしまさ)へと続きます。
政治に全く興味を示さなかった義政は早くに隠居を考えます。
しかし、跡継ぎがいなかったため
出家していた弟、
足利義視 (あしかがよしみ)を次期将軍にたてました。
ですがその後、正室との間に男児が誕生すると、
その子 足利義尚 (あしかがよしひさ)を
将軍にしようとする動きが起こります。
当然、義視はこれに反発。
幕府内は義尚派と義視派に割れてしまいました。
生まれたばかりの義尚を将軍に押すのは
正室 日野富子 (ひのとみこ)。
そして、山名宗全 (やまなそうぜん)というエリート大名でした。
一方、次期将軍を約束されたはずだった義視を支えたのは
こちらもエリートの守護大名 細川勝元 (ほそかわかつもと)でした。
現将軍の義政は、というと
どちらにも決めない曖昧な態度をっとていました。
将軍家が跡継ぎ問題でもめている中、
有力大名の中でも同じ問題が起こっていました。
畠山氏や斯波氏も後継者争いのため
それぞれ身内同士で対立していたのです。
そして、彼らが頼ったのもやはり
宗全であり勝元でした。
世は将軍家をはじめ諸国の大名たちを巻き込み
この2人を中心に回り始めたのです。
そんな中、畠山氏は もめにもめた末、
一方に追討令が出され、武力衝突が起きてしまいます。
そして、これをきっかけに京は東西に分かれ
一触即発の状況へと追い込まれていくのでした。
つづく。
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まとめtyaiました【月山富田城のお殿 当主をめぐる混乱】
つづき。室町幕府3代将軍、足利義満 (あしかがよしみつ)が南北朝の統一を果たすと鎌倉時代後期から続いた守護大名たちの反乱は収束していきました。しかし、それも一時的なものでした。6代、足利義教 (あしかがよしのり)が暗殺され、7代、足利義勝 (あしかがよし?...