松江城のお殿様 京極忠高
つづき。
松江城には 堀尾忠晴 の死去後、 京極忠高 が入りました。
松江城は宍道湖の東側・北岸にあります。
その宍道湖の西には斐伊川(ひいかわ)という川が流れていました。
斐伊川はよく洪水を起こす川でした。
氾濫の度に人々の命を奪い、
田畑を泥で埋め、家々を飲み込む
この川そのものが 「ヤマタノオロチ」 とも言われています。
忠高は斐伊川の洪水で
人々が苦しんでいることを知りました。
そして、川の流れを変えるという大工事を行いました。
元々、中国山地から日本海へ流れ出ていた斐伊川を
宍道湖に流れ込むようにしたのです。
しかし、この大規模な治水工事の完成を
忠高は見ることはありませんでした。
45歳で跡継ぎのないままこの世を去ったのです。
斐伊川の洪水から解放された人々は、
若狭国からやってきた殿様、京極忠高にちなんで
この工事でできた土手を 「若狭土手」と呼ぶようになりました。
つづく。
松江城には 堀尾忠晴 の死去後、 京極忠高 が入りました。
松江城は宍道湖の東側・北岸にあります。
その宍道湖の西には斐伊川(ひいかわ)という川が流れていました。
斐伊川はよく洪水を起こす川でした。
氾濫の度に人々の命を奪い、
田畑を泥で埋め、家々を飲み込む
この川そのものが 「ヤマタノオロチ」 とも言われています。
忠高は斐伊川の洪水で
人々が苦しんでいることを知りました。
そして、川の流れを変えるという大工事を行いました。
元々、中国山地から日本海へ流れ出ていた斐伊川を
宍道湖に流れ込むようにしたのです。
しかし、この大規模な治水工事の完成を
忠高は見ることはありませんでした。
45歳で跡継ぎのないままこの世を去ったのです。
斐伊川の洪水から解放された人々は、
若狭国からやってきた殿様、京極忠高にちなんで
この工事でできた土手を 「若狭土手」と呼ぶようになりました。
つづく。
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