松江城のお殿様 京極氏
つづき。
松江藩藩主、堀尾氏は3代 忠晴 で断絶となりました。
その次に松江にやってきたのは
京極忠高 (きょうごくただたか)でした。
少し時をさかのぼりましょう。
関ヶ原の戦いのちょっと前のことです。
徳川家康 が会津の 上杉景勝 討伐のため
大坂から江戸へ向けて出発しました。
家康は、途中にある近江国大津城に立ち寄りました。
大津城の藩主は忠高の父 京極高次 (きょうごくたかつぐ)でした。
家康は高次に、会津征伐に協力するよう要請しました。
高次は弟の高知(たかとも)と家来を従軍させました。
さらに家康は、 石田三成 ら西軍から大津城をを守るように
手紙で何度も頼みました。
一方、その三成からも西軍につくよう求められていました。
義兄の豊臣秀吉方 西軍となるか、
義弟の徳川秀忠方 東軍となるか、
難しい問題でした。
結局、高次は西軍に属することを決断します。
息子の忠高を人質として大坂へ送りました。
関ヶ原の戦いの2週間前
高次は西軍の後を追い兵を東へ進めます。
つづく。
松江藩藩主、堀尾氏は3代 忠晴 で断絶となりました。
その次に松江にやってきたのは
京極忠高 (きょうごくただたか)でした。
少し時をさかのぼりましょう。
関ヶ原の戦いのちょっと前のことです。
徳川家康 が会津の 上杉景勝 討伐のため
大坂から江戸へ向けて出発しました。
家康は、途中にある近江国大津城に立ち寄りました。
大津城の藩主は忠高の父 京極高次 (きょうごくたかつぐ)でした。
家康は高次に、会津征伐に協力するよう要請しました。
高次は弟の高知(たかとも)と家来を従軍させました。
さらに家康は、 石田三成 ら西軍から大津城をを守るように
手紙で何度も頼みました。
一方、その三成からも西軍につくよう求められていました。
義兄の豊臣秀吉方 西軍となるか、
義弟の徳川秀忠方 東軍となるか、
難しい問題でした。
結局、高次は西軍に属することを決断します。
息子の忠高を人質として大坂へ送りました。
関ヶ原の戦いの2週間前
高次は西軍の後を追い兵を東へ進めます。
つづく。
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