月山富田城のお殿様 応仁の乱
つづき。
将軍家を含めた大名たちのお家騒動や
利害をめぐるもめごとなどが複雑に絡み合い
2つの派閥にわかれ、ついに京で対峙するまでになりました。
細川勝元 (ほそかわかつもと)は
堀川の東側、自邸に陣を張りました。
一方、山名宗全 (やまなそうぜん)は
堀川の西側の自邸に布陣します。
堀川を挟んで東西に布陣したことから
勝元軍を東軍、宗全軍を西軍と呼びます。
地方では播磨や若狭などで両軍に属する軍が
侵攻・奪還等を行っていましたが
やがて京へ集結します。
京の町は不安定な状態にありました。
各地で両軍は小競り合いや
物資の供給路を略奪・放火などで攻撃しあっていました。
そんな中、東軍勝元は保護という名目で
将軍らを引き込むことに成功します。
将軍、足利義政 (あしかがよしまさ)が東軍に付いたことで
東軍が官軍(正規軍)となり
西軍が賊軍(反乱軍)という立場になりました。
戦火は次第に大きくなります。
戦況は両軍のどちらにも傾く互角の戦いでした。
長引く戦に、京の町はあちこちで炎に焼かれていきます。
両軍の武将たちも生き残りをかけ
敵方へ寝返る者も出始めます。
将軍家も例外ではありません。
身の危険を感じた 足利義視 (あしかがよしみ)が
京から比叡山に逃亡してしまいます。
そして、東軍から外れた義視を
西軍が新将軍として迎え入れたのです。
しかし、戦力の拮抗する両軍は
こう着状態から抜け出せません。
やがて、戦線は地方へと広がり始めます。
大名たちが目指す幕府のポジション争いも
幕府事態の権力の失墜により、
意味のないものになっていきました。
そんな中、両軍の指揮官
宗全・勝元が相次いで病死。
各地の大名たちも領国への戦の広がりを気にして
京を引き上げ始めます。
やがて、自然消滅的に西軍が解体され
11年に渡る戦が終焉を迎えました。
戦による被害は甚大で、京は壊滅状態。
にもかかわらず、明確な勝利者もなく
幕府も著しく弱体化し
世の中は「力こそが全て」の混沌とした時代へと向かい始めるのでした。
これを、応仁の乱 と呼びます。
つづく。
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将軍家を含めた大名たちのお家騒動や
利害をめぐるもめごとなどが複雑に絡み合い
2つの派閥にわかれ、ついに京で対峙するまでになりました。
細川勝元 (ほそかわかつもと)は
堀川の東側、自邸に陣を張りました。
一方、山名宗全 (やまなそうぜん)は
堀川の西側の自邸に布陣します。
堀川を挟んで東西に布陣したことから
勝元軍を東軍、宗全軍を西軍と呼びます。
地方では播磨や若狭などで両軍に属する軍が
侵攻・奪還等を行っていましたが
やがて京へ集結します。
京の町は不安定な状態にありました。
各地で両軍は小競り合いや
物資の供給路を略奪・放火などで攻撃しあっていました。
そんな中、東軍勝元は保護という名目で
将軍らを引き込むことに成功します。
将軍、足利義政 (あしかがよしまさ)が東軍に付いたことで
東軍が官軍(正規軍)となり
西軍が賊軍(反乱軍)という立場になりました。
戦火は次第に大きくなります。
戦況は両軍のどちらにも傾く互角の戦いでした。
長引く戦に、京の町はあちこちで炎に焼かれていきます。
両軍の武将たちも生き残りをかけ
敵方へ寝返る者も出始めます。
将軍家も例外ではありません。
身の危険を感じた 足利義視 (あしかがよしみ)が
京から比叡山に逃亡してしまいます。
そして、東軍から外れた義視を
西軍が新将軍として迎え入れたのです。
しかし、戦力の拮抗する両軍は
こう着状態から抜け出せません。
やがて、戦線は地方へと広がり始めます。
大名たちが目指す幕府のポジション争いも
幕府事態の権力の失墜により、
意味のないものになっていきました。
そんな中、両軍の指揮官
宗全・勝元が相次いで病死。
各地の大名たちも領国への戦の広がりを気にして
京を引き上げ始めます。
やがて、自然消滅的に西軍が解体され
11年に渡る戦が終焉を迎えました。
戦による被害は甚大で、京は壊滅状態。
にもかかわらず、明確な勝利者もなく
幕府も著しく弱体化し
世の中は「力こそが全て」の混沌とした時代へと向かい始めるのでした。
これを、応仁の乱 と呼びます。
つづく。
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