月山富田城のお殿様 鎌倉幕府滅亡
つづき。
船上山の 後醍醐天皇 が挙兵すると
幕府方の武将にも寝返る者が出てきました。
そのうちの2人が倒幕に大きな貢献を果たします。
京の役所、六波羅探題には 足利尊氏 (当時高氏)が攻め入り
これを制圧。
幕府の本拠地、鎌倉へは 新田義貞 (にったよしさだ) が奮戦し、
鎌倉への侵入に成功します。
鎌倉は大混乱におちいり、
ついに幕府のトップ、北条高時 (ほうじょうたかとき)は自刃してしまいました。
これにより鎌倉幕府は滅亡します。
悲願を達成した後醍醐天皇は京にもどり、
政治を天皇を中心に取り戻すべく、自ら政治を取り仕切りました。
これを 建武の新政 といいます。
鎌倉は尊氏の弟、足利直義 (あしかがただよし)が
執権として入り、治めることになりました。
一方鎌倉を追われた北条一族は、、再興を図っていました。
北条高時の次男 北条時行 (ほうじょうときゆき)を擁立し挙兵します。
この時、時行は10歳程度であったと言われています。
北条氏の残党は鎌倉の占拠に成功します。
これに対し尊氏は脱出した直義と合流し、鎌倉の奪還に向かいました。
北条一族を駆逐し鎌倉を奪い返すと
尊氏はそのまま鎌倉に残りました。
朝廷から京にもどるようにと命令が出ましたが
これを無視して独自の武家政権を目指し始めます。
独走し始める尊氏に対し、後醍醐天皇は新田義貞に尊氏討伐を命じました。
鎌倉幕府を共に倒した2人が、敵同士として向かいあいます。
つづく。
カウンター

船上山の 後醍醐天皇 が挙兵すると
幕府方の武将にも寝返る者が出てきました。
そのうちの2人が倒幕に大きな貢献を果たします。
京の役所、六波羅探題には 足利尊氏 (当時高氏)が攻め入り
これを制圧。
幕府の本拠地、鎌倉へは 新田義貞 (にったよしさだ) が奮戦し、
鎌倉への侵入に成功します。
鎌倉は大混乱におちいり、
ついに幕府のトップ、北条高時 (ほうじょうたかとき)は自刃してしまいました。
これにより鎌倉幕府は滅亡します。
悲願を達成した後醍醐天皇は京にもどり、
政治を天皇を中心に取り戻すべく、自ら政治を取り仕切りました。
これを 建武の新政 といいます。
鎌倉は尊氏の弟、足利直義 (あしかがただよし)が
執権として入り、治めることになりました。
一方鎌倉を追われた北条一族は、、再興を図っていました。
北条高時の次男 北条時行 (ほうじょうときゆき)を擁立し挙兵します。
この時、時行は10歳程度であったと言われています。
北条氏の残党は鎌倉の占拠に成功します。
これに対し尊氏は脱出した直義と合流し、鎌倉の奪還に向かいました。
北条一族を駆逐し鎌倉を奪い返すと
尊氏はそのまま鎌倉に残りました。
朝廷から京にもどるようにと命令が出ましたが
これを無視して独自の武家政権を目指し始めます。
独走し始める尊氏に対し、後醍醐天皇は新田義貞に尊氏討伐を命じました。
鎌倉幕府を共に倒した2人が、敵同士として向かいあいます。
つづく。
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