月山富田城のお殿様 佐々木義清 前史その5
つづき。
源頼朝 がついに動きます。
治承・寿永の乱 、世にいう 源平合戦 の始まりです。
流刑を受け伊豆に流されていた頼朝は、
手始めに伊豆国の目代(代官)を襲撃しました。
佐々木四兄弟の働きもあり、作戦は成功します。
続いて相模国に進出しますが、
ここで立ちふさがったのが平家方、大庭景親 です。
佐々木秀義・義清 も景親に従い、頼朝の敵方として参戦しました。
景親は頼朝の10倍の兵力、3000騎で迎撃します。
結果は火を見るより明らか。
頼朝軍は大敗し、安房国へ敗走しました。
これを 石橋山の戦い といいます。
しかし、わずか1カ月で頼朝は体制を立て直し再び挙兵します。
その数は膨らみ続け、数万騎の大軍が鎌倉へ移動しました。
これほどの大軍になると、大庭景親も手が出せません。
なすすべ無く頼朝軍の動向を見守ります。
一方、頼朝挙兵の知らせを受けた京の 平清盛 は
平維盛 (たいらのこれもり)を頼朝追討に派兵します。
平氏の動きを知った頼朝は鎌倉を出て西に兵を進めます。
両軍がが対峙した場所は富士山麓。
頼朝は東の黄瀬川に陣を張り、
維盛は西の富士川に陣を敷きました。
維盛軍7万騎に対して、頼朝軍は20万騎ともいわれる大軍勢。
兵糧の不足などもあり、敵前逃亡も頻発し
平氏方の兵の士気は落ちていました。
結局、大きな戦いもなく維盛軍は撤退してしまいます。
有名な話に、鳥の羽音に驚き大混乱の上敗走した、というものもあります。
これを 富士川の戦い といいます。
この戦いで、大庭景親は降伏し処刑されました。
景親に従っていた佐々木秀義・義清は
この後頼朝方につくことになります。
またこの翌日、頼朝に一人の若者が訪ねてきます。
末弟 源義経 (みなもとのよしつね)でした。
つづく。
源頼朝 がついに動きます。
治承・寿永の乱 、世にいう 源平合戦 の始まりです。
流刑を受け伊豆に流されていた頼朝は、
手始めに伊豆国の目代(代官)を襲撃しました。
佐々木四兄弟の働きもあり、作戦は成功します。
続いて相模国に進出しますが、
ここで立ちふさがったのが平家方、大庭景親 です。
佐々木秀義・義清 も景親に従い、頼朝の敵方として参戦しました。
景親は頼朝の10倍の兵力、3000騎で迎撃します。
結果は火を見るより明らか。
頼朝軍は大敗し、安房国へ敗走しました。
これを 石橋山の戦い といいます。
しかし、わずか1カ月で頼朝は体制を立て直し再び挙兵します。
その数は膨らみ続け、数万騎の大軍が鎌倉へ移動しました。
これほどの大軍になると、大庭景親も手が出せません。
なすすべ無く頼朝軍の動向を見守ります。
一方、頼朝挙兵の知らせを受けた京の 平清盛 は
平維盛 (たいらのこれもり)を頼朝追討に派兵します。
平氏の動きを知った頼朝は鎌倉を出て西に兵を進めます。
両軍がが対峙した場所は富士山麓。
頼朝は東の黄瀬川に陣を張り、
維盛は西の富士川に陣を敷きました。
維盛軍7万騎に対して、頼朝軍は20万騎ともいわれる大軍勢。
兵糧の不足などもあり、敵前逃亡も頻発し
平氏方の兵の士気は落ちていました。
結局、大きな戦いもなく維盛軍は撤退してしまいます。
有名な話に、鳥の羽音に驚き大混乱の上敗走した、というものもあります。
これを 富士川の戦い といいます。
この戦いで、大庭景親は降伏し処刑されました。
景親に従っていた佐々木秀義・義清は
この後頼朝方につくことになります。
またこの翌日、頼朝に一人の若者が訪ねてきます。
末弟 源義経 (みなもとのよしつね)でした。
つづく。
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