月山富田城のお殿様 平景清
松江城が造られる前、
戦国時代、その地には末次(すえつぐ)城がありました。
その末次城は毛利氏や尼子氏が争奪しあい、
その尼子氏の拠点が月山富田(がっさんとだ)城でした。
富田城は、平景清 (たいらのかげきよ)によって
平安時代の後期に築城されたといわれています。
築城の際、月山の山頂にあった勝日神社を別の地に移すため
矢を放ってその地を決め、
神社はその後富田八幡宮と呼ばれるようになりました。
景清の本名は、藤原総七郎兵衛尉景清(ふじわらそうしちろうひょうえのじょうかげきよ)。
平家に仕えていたため、「平」を名乗っていたようです。
豪胆な武士で、「悪七兵衛」という異名を持っていました。
実在の人物ではありますが、謎が多く
日本各地に伝説が残っています。
松江周辺でも、富田城築城のほか
白潟天満宮の縁起も景清とされています。
目を患った景清は、管神(菅原道真)に祈り
全快したことから富田城内に、菅原道真を祀る社殿を建立しました。
やがて、富田城は廃城となり
堀尾氏が松江城に入ると、その社殿も移され
現在の白潟天満宮に至ります。
景清は「目」に関する伝説が多く残っているようです。
源氏に目を射ぬかれ、盲目のまま落ち延びた、とか
源氏の世を認められずに、自ら目をくり抜いた、とか。
景清は壇の浦の戦いで敗れると、
源氏の武将にその身を預けられ、
絶食して息絶えた、と伝えられます。
つづく。
戦国時代、その地には末次(すえつぐ)城がありました。
その末次城は毛利氏や尼子氏が争奪しあい、
その尼子氏の拠点が月山富田(がっさんとだ)城でした。
富田城は、平景清 (たいらのかげきよ)によって
平安時代の後期に築城されたといわれています。
築城の際、月山の山頂にあった勝日神社を別の地に移すため
矢を放ってその地を決め、
神社はその後富田八幡宮と呼ばれるようになりました。
景清の本名は、藤原総七郎兵衛尉景清(ふじわらそうしちろうひょうえのじょうかげきよ)。
平家に仕えていたため、「平」を名乗っていたようです。
豪胆な武士で、「悪七兵衛」という異名を持っていました。
実在の人物ではありますが、謎が多く
日本各地に伝説が残っています。
松江周辺でも、富田城築城のほか
白潟天満宮の縁起も景清とされています。
目を患った景清は、管神(菅原道真)に祈り
全快したことから富田城内に、菅原道真を祀る社殿を建立しました。
やがて、富田城は廃城となり
堀尾氏が松江城に入ると、その社殿も移され
現在の白潟天満宮に至ります。
景清は「目」に関する伝説が多く残っているようです。
源氏に目を射ぬかれ、盲目のまま落ち延びた、とか
源氏の世を認められずに、自ら目をくり抜いた、とか。
景清は壇の浦の戦いで敗れると、
源氏の武将にその身を預けられ、
絶食して息絶えた、と伝えられます。
つづく。
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