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松江城のお殿様 末次城

1611年に築城した松江城は

かつて、末次(すえつぐ)城のあった亀田山に造られました。


末次城については、どうやらあまり記録が残っていないようです。

鎌倉時代中ごろ、 佐々木胤清 (ささきたねきよ?) 

という人物によって築かれたとされています。


胤清の子孫は「末次氏」を名乗ることになりますが、

どういういきさつか、城主には「塩冶氏」(えんやし)が収まり

やがて、「尼子氏」・「毛利氏」といった名のある一族が

この末次城を奪い合います。


どうやら、このあたりのお話は

山陰の武将、尼子氏について知る必要がありそうです。


では、新シリーズ、「尼子氏」。

やってみましょうか。







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松江城のお殿様 松江城

さて、ここまで来たら

もう少し松江城について、いってみましょう。


松江城は、1607年から1611年にかけて造られたお城です。

堀尾吉晴・忠氏・忠晴 の堀尾家の3代によって築城されました。


戦国時代から江戸時代に移る、

時代の分岐点で生まれたこのお城は

新しい平山城(ひらやまじろ)でありながら

古い山城の特徴を持つ、実戦的なお城となりました。


宍道湖の北側に築かれた

日本三大湖城のひとつです。


また、江戸時代から残っている天守閣のひとつでもあります。

これは全国に12か所しかありません。


姫路城などのメジャーなお城と比べてしまうと

コンパクトさが浮き立ちますが、

国の重要文化財に指定されているお城です。



この松江城の地は

かつて「亀田山」と呼ばれていました。

松江城ができる前は、末次(すえつぐ)城というお城がありました。



・・・っということで、松江城の先輩、末次城について調べてみるとしましょう。






松江城のお殿様 お城のその後

明治に入ると全国のお城は無用となりました。

多くのお城が解体され、人びとに資材として供給されました。

松江城のお隣、かつて、堀尾吉晴がそのお家騒動の鎮圧に向かった米子城

お風呂屋さんの薪になってしまいました。


松江城もこの例にもれることなく、

諸建造物が民間に払い下げとなり、次々解体されました。

天守閣も180円で落札されたので、取り壊しも時間の問題となっていました。


そんな中、松江のシンボル、松江城を救う為に偉大な人物が立ち上がりました。


お百姓さんです。


といってもお金のある豪農。

その名を、勝部元右衛門栄忠 (かつべほんうえもんしげただ)。

その息子、勝部元右衛門景浜 (かつべほんうえもんかげはま)。


そして、銅山を経営していた勝部家と親しかった

元藩士 銅山方役人 高城権八 (たかぎごんぱち)。


これらの人々が奔走し、資財をなげうって、

松江城を買い戻し、保存に努めたのです。



当時は明治初頭。国は文明開化一直線です。

侍を無用とし、廃刀令や断髪令などが交付され、

お城に関しても廃城令という法律で解体を促しました。


そんな国の命令を拒否してまで、

(きちんと法的にお金で解決しているのですが。)

残したかったお城なのです。


それはこの地の象徴であり、城下に暮らす庶民の誇りでした。

時代の流れが大きく変わるその中でも

人々にとって、その心に刻まれた松江城を失うということは

耐え難いものだったのでしょうね。






松江城のお殿様 まとめ

1600年の関ヶ原の戦いの後、

出雲国にやってきたお殿様が、松江を造りました。

それから400年。

今年度は開府400年祭の最終年度として

松江が燃えております。


それでは、今までご紹介した そのお殿様たちを振り返ってみましょう。



 1.堀尾吉晴(よしはる) 息子、忠氏とともに出雲国月山富田城に入る。

                 松江城築城直前に死去。

 2.堀尾忠氏(ただうじ) 遠江国浜松城より出雲国月山富田城に入る。

                 松江城築城場所の選定中に急死。

 3.堀尾忠晴(ただはる) 松江城初代城主。嗣子なく死去した為、堀尾家は断絶。

 4.京極忠高(ただたか) 若狭小浜より移封するも、嗣子なく死去。

 5.松平直政(なおまさ) 信濃松本より移封。徳川家康の孫。出雲松江藩松平家初代藩主。

 6.松平綱隆(つなたか) 第2代藩主。

 7.松平綱近(つなちか) 第3代藩主。

 8.松平吉透(よしとう) 第4代藩主。綱近の弟。

 9.松平宣維(のぶずみ) 第5代藩主。刀剣、大明京を幕府に提出。

10.松平宗衍(むねのぶ) 第6代藩主。

11.松平治郷(はるさと) 第7代藩主。強圧的な改革により財政再建を成し遂げる。

                 茶人、不昧(ふまい)公として名高い。

12.松平斉恒(なりつね) 第8代藩主。

13.松平斉貴(なりとき) 第9代藩主。強制的に隠居させられる。

14.松平定安(さだやす) 第10代藩主。伊予松山藩より迎えられる。最後の藩主。



■ 堀尾吉晴は関ヶ原よりも前に隠居していましたので、

  藩主でも城主でもありませんでしたが、

  息子、忠氏と孫の忠晴のサポートに尽力したため、

  その功績をたたえ、初代藩主とされることが一般的です。
 


さて、明治に入り江戸時代が終わり、

サムライはいなくなりました。

松江城はどうなってしまったのでしょうか?