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大明京のお話 補足2

今回も「大明京のお話」の補足です。


前回の一覧に「享保諸国鍛冶御改め」という

漢字乱立用語を記載しましたが、これについて。


お話の中にも出てきましたが、

この「享保諸国鍛冶御改め」(きょうほう しょこく かじ おんあらため)は

暴れん坊将軍でおなじみ、

8代将軍 徳川吉宗 が定めたもので、刀のコンテストです。


こんなことをやった人は、後にも先にもいません。

やはり吉宗はちょっと違います。


その目的は、各藩の刀工の人数、技量、などを調査し、

刀工の意識と技術の向上を図る、というもの。

これは平和ボケし、緩みきった武士の性根を

叩き直すことが根本にあり、その政策のひとつということです。


各藩にはその調査報告書と

藩を代表する刀を二振りづつ(だったかな?)提出させて、

どの刀が上等かいな、とランク分けをしました。


最優秀の刀を作った刀工は召し出され、

将軍家の別邸(浜離宮)で鍛刀することになり、

葵の御門を入れることを許されました。

葵の御門とは水戸黄門の印籠のあのマークだね。



雲洲松江藩でこの命令を受けたのは 

第五代藩主 松平宣維(まつだいらのぶずみ)という人。

言っちゃなんだが、マイナーな人だ。

松平治郷(まつだいらはるさと)ならもう少し知名度もあるんだけど・・・


まぁ とにかくこの殿様が自分とこにいる刀鍛冶を選んだわけで、

大明京国重と冬広の刀が江戸に送られます。


結果、松江藩の刀はだいたい平均的な出来栄えだったようで

特に話題にする書籍は現在見つかっておりません。無念。







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大明京のお話 補足

いや~、予定よりかなり続いたなぁ。

大明京のお話。

2話ぐらいのつもりだったのに。


言い回しとか意外と考えなきゃならなくて

ケッコウ時間かけたよ。


ま、そんなことはどーでもよくて、

今回はその「お話」の補足ということでいってみよう。


まず、歴代大明京です。 

年代氏名鍛冶名備考住まい
慶長初代
(異説)
高麗弥五郎大明京国重「阿州住」
(阿波国在住の意味)と
銘打った物があったらしい
松江白潟
寛文~元禄初代高麗弥九郎大明京国重24腰しか作刀しなかった
(築城の為か?)
松江白潟
元禄~享保二代高麗治兵衛大明京国安
  後に国重
「享保諸国鍛冶御改め」
により幕府へ献上
松江白潟
元文~宝暦三代高麗弥九郎?大明京国安 松江古志原村
または大庭村?
文化~天明四代不明大明京宗家 松江古志原村
または大庭村?
文政~明治5年五代不明大明京宗安宗家の子
「八雲万歳」と同人とも
松江大庭村
または八雲村?


この程度しか調べ切れませんでした。

やはり謎の多い一門です。


幕末から明治にかけては

別門の冬広一派である高橋長信が全国的にも有名になり

大明京はその影に埋もれていったように感じます。


二代までは城下町で作刀していましたが、

以降、郡部に移った、とのことです。

二代目(推測)の自害が影響しているのかもしれません。


引越し先は謎ですが、

最終的に自分の実家の本家に落ち着いたことになります。

本家は現在十四代目だったかな?

 
なんとなく数字は合う気がしますが、都合よく解釈しすぎでしょうか?


明治に入ると廃刀令により

刀の需要は激減し、大明京も作刀は辞めちゃったんでしょう。


ちなみに分家の自分の実家も鍛冶屋だったらしいのですが、

刀は作らず、包丁や農具など生活に結びついた製品を作っていたようです。

分家して、大明京の作刀技術を庶民のために活用した我がご先祖様。

なかなかにくいねぇ。


本家のその後の鍛冶事情については情報がありません。

次回の帰省でじいちゃんに聞いてみよ。






大明京のお話 その6

つづき。



国重が腹を切って死んでしまってから

どれくらいの年月がたったのでしょうか?

大明京国重の子孫は

女を切り殺した刀を「神魂(かもす)神社」に奉納しました。


この「神魂神社」は「大庭大宮」と呼ばれ

今でも大切にされています。

かつては「大庭明神」とも呼ばれていたこともあるようで、

「大明京」という変わった名前は

神前の鍛冶屋の兵衛」が作ったからだ、とも言われています。

でも、国重の故郷の「大明帝国」からとったものだ、という人もあり

いろいろ言われていますが、本当のところはよくわかりません。


たしかに、国重はもともと異人で朝鮮半島から来た人だ、

というのは間違いないようです。


では、出雲国に来る前はどこにいたのでしょう?

信濃国、石見国、、阿波国、と

これもいろいろ言われていてわかっていませが、

ひとつ面白いことは、阿波国、今の徳島県には

大明京国重と同じ名字の「高麗」さんがたくさんおられることです。



かつての大明京屋敷は、今は駐車場になってしまいその面影は全くありません。

大明京国重は屋敷に祠を造り、金屋子神を祀っていたのですが

その祠も今は金屋子神社総本山に移されて保管されています。



結局「大明京」がどんな人物だったのかはよくわかりません。

でも、それで良かったのかもしれません。

「大明京」の人物像を伝えるものが残っていないのは、

人々の関心は刀を造った者より、刀自体に向いていたからではないでしょうか。


自分自身より自分の作品に興味を持ってもらえる、

こんなことは物造りをする者は、当たり前にそう望んでいる筈なのだから。



おわり。






大明京のお話 その5

つづき。


享保と呼ばれる頃、

出雲国から遠く離れた江戸で

徳川吉宗という将軍様は悩んでいました。


平和な時が長く続いてきたため

家来のお侍たちの剣術の腕前が落ちてしまっていることです。


弱い侍では、何かあったとき人々を守ることができません。

お侍たちのやる気を出させるにはどうしたらよいか

将軍様はずーっと考えていました。


そしてついに、ある命令を出しました。


それは日本全国の刀のコンテストをやろう、というものでした。

侍の魂である刀を競わせれば、

お侍たちも刺激を受けるのでは、と考えたのです。


日本中の殿様は自分の国の自慢の刀を

江戸に送ることになりました。


出雲国の殿様は出雲国一の刀、

「大明京」と「冬広」を送ることにしました。


この刀を作ったのは

二代目大明京国重 高麗治兵衛 と

二代目雲州冬広 高橋喜兵衛 でした。


江戸に集められた国中の刀は

出雲国の刀よりさらにすばらしいものがたくさんありました。


このコンテストにより

全国の刀鍛冶はよりよい刀を生み出すために

以前よりも仕事に励み、自分の腕を磨いたに違いありません。


国重もまさに命をかけて、刀造りに励みました。



つづく。






大明京のお話 その4

つづき。


時はさらに経ち、

二代目の大明京国重が刀造りをしていたころ

出雲国の殿様は、お隣の伯耆国の殿様に

刀の自慢話をよくしていました。


伯耆国には有名な刀鍛冶屋がいなかったので

伯耆国の殿様はたいそう悔しがりました。


ある日、一人の物売りの女が国重の家にやって来て

そのうち毎日訪れるようになりました。

やがて、国重の息子と良い仲になり、めでたく結婚しました。


でも実はこの女は、伯耆国の殿様の家来だったのです。

何も知らない国重たちの目を盗み、

女は国重の刀造りの方法をどんどん覚えていきました。


そして、ついに女は刀の作り方を全部覚えてしまいました。

ですが、どうしてもわからないことが一つだけありました。

それは鉄を冷やすためのお湯加減でした。


お湯加減を調べるには手を浸けるしかないのですが、

国重はそれだけは許しませんでした。


困った女は考えに考えて、火事を起こすことを思いつきました。

火事で国重があわてている間に、

お湯の中に手を浸けてしまおう、というのです。


女は火事を起こし、まんまとお湯加減を盗んでしまいました。

これに気がついた国重は、女の正体を見抜き

怒り狂いました。


近くに置いてあった自分の作った刀を手にすると

逃げる女の背中をバッサリ切りつけ、殺してしまいました。


その後、国重は自分の技術を盗まれたことに

責任をとるため、切腹して死んでしまいました。



つづく。