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お詫び

11/29 に 林様 より 「松平定安」 について誤りの御指摘がありました。

松江城のお殿様 松平家系図

お詫びを申し上げるとともに

正しいエピソードを作成いたしますことをお約束いたします。


申し訳ございませんでした。
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松江城のお殿様 松平家系図

10代続いた 松江松平家は

松平定安
 を最後に明治時代を迎えます。


その後は伯爵となり、現在に至ります。


無題


系図をクリックすると拡大版が現れます。







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松江城のお殿様 もうひとつの事件

つづき。


実は、隠岐がゴタゴタしていたとき

なんと、江戸時代は終わっていました。


松平定安 は松江藩最後の藩主になりました。


隠岐騒動の起きる直前、

大政奉還・王政復古の大号令 

という有名な出来事が起きました。

これにより明治新政府が誕生。

明治時代が始まったのです。


そして、騒動と時を同じくして 戊辰戦争 も勃発。

まさに大混乱の時代でした。


さて、この日本の混乱は異国の圧力が原因でした。

この圧力に対抗するため、

松江藩では隠岐に農兵制を導入し、防衛力の向上を行います。


また、異国から最新鋭の軍艦も購入しました。

第一八雲丸・第二八雲丸 です。


明治元年、

第二八雲丸は 京都の藩兵に兵糧を送るため

松江を出航しました。


ですが、風雨と故障が相次ぎ

出航しては最寄りの港に避難、の繰り返しでした。


なんとか目的の敦賀港に入港し、積み荷を降ろすことがができました。


しかし、この八雲丸の行動は

新政府に対する「威嚇」とみなされ

船は拘束され、松江藩は家老の切腹を要求されました。


必死の説得により誤解は解けましたが

ペナルティーは大きく、15万両の賠償金など

重い代償を受けることになりました。



この事件を

山陰道鎮撫使事件
 (さんいんどうちんぶしじけん)といい、

隠岐騒動と同じく、幕末の松江藩を動揺させた出来事でした。



つづく。






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松江城のお殿様 隠岐の事件

つづき。


長年、苦しい生活を強いられてきた隠岐の島の人々は

何もしてくれない松江藩をよく思っていませんでした。


そこへ、松江藩が異国船への対策として農兵制を導入したことで

人々は兵の仕事も与えられてしまいました。


さらに重労働に苦しむことになったのです。


そして、そんな時に起きた役人の非常識な失態により、

松江藩は島の人々から信頼を失うことになりました。


やがて人々は松江藩を敵視するようになります。


隠岐の島の人々は、昔からとても天皇を大切に思っていました。

「隠岐は天皇の土地」と主張し、

藩の役人を追い出そうと蜂起します。


島民3000人が役人の屋敷に集結しました。

この圧力に屈服した役人は、島民の要求をのみ松江に引き上げます。


無血でクーデターを成功させた人々は

藩の支配から脱し、独自の自治体を築きました。

あとは、朝廷のお墨付きをもらうだけです。


ですが、朝廷からの返事はなく

それどころか、この事態の収拾を松江藩に命じてしまいました。


藩は隠岐に兵を送ります。

隠岐は一触即発の状態に陥りました。

島民は藩には従わず、朝廷の回答を待ち続けていました。


緊張状態が続くなか、ついに1発の銃声が響きました。

これを火ぶたに戦闘が始まりました。


ですが、戦いというモノではありませんでした。

藩側は銃器、島民は剣と竹やりだったのです。


多くの島民が死傷し、瞬く間に松江藩が勝利。奪還に成功しました。


島民の自治は、80日で終わりました。

住みよい島を目指し、夢と希望にあふれる80日でした。


この事件を 「 隠岐騒動 」 といいます。




つづく。






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松江城のお殿様 松平定安と隠岐の島

つづき。


松平斉斎
 (まつだいらなりとき)は、8歳で藩主となり

そのムチャクチャぶりから、39歳で隠居させられました。


次の藩主は斉斎の子ではなく

伊予松山藩より迎えられた 松平定安 (まつだいらさだやす)が

第10代藩主となりました。


定安は有能な人物でした。

西洋の進んだ思想や技術を取り入れるべく、積極的に行動します。


西洋学校の設立、

異人を招いたり、

異国への留学など、さまざまな政策をとりました。


さて、このころの日本近海は

異国の船が頻繁に現れるようになっていました。


そんな時ですので、松江藩は幕府から

松江藩が管理する隠岐の島の防衛を命じられました。


定安は隠岐の島の農民を兵にしようと考えます。

農兵制の採用です。


隠岐の島の農民たちは

もともと、食糧難で生活に困っているところに

兵としての訓練や役割が押し付けられました。


そんな中、ある日、黒船が隠岐の島にやってきました。

島の役人が黒船に立ち入り調査しましたが

なんと、船に刀を置き忘れてしまします。


この失態により、農民たちの藩への信頼は地に落ちてしまいました。




つづく。






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