松江城のお殿様 京極氏の血
つづき。
京極忠高 が跡継ぎのないまま死去したことで
京極家は断絶となってしまいます。
しかし、幕府は京極家の忠義を評価し
甥の 京極高和 (きょうごくたかかず)に播磨国竜野を与え
京極氏を大名として存続させました。
その後、讃岐国丸亀藩に移され、以降廃藩置県まで続きます。
忠高と初姫の間には 伊知子 (いちこ)という姫がいました。
伊知子は丸亀藩の家老と結婚し
男の子を授かります。京極高房 (きょうごくたかふさ)です。
数年後、
丸亀藩藩主、高和の 長男小法師 が幼くして亡くなりました。
跡継ぎを心配した高和は、幼い高房を養子に迎えます。
母、伊知子は5歳の高房と
別れなければなりませんでした。
伊知子は息子の出世の喜びと
別れの悲しみを「涙草」につづりました。
結局、跡継ぎはその後生まれた 京極高豊 (きょうごくたかとよ)となり、
高房は旗本として34年の生涯を終えました。
つづく。
京極忠高 が跡継ぎのないまま死去したことで
京極家は断絶となってしまいます。
しかし、幕府は京極家の忠義を評価し
甥の 京極高和 (きょうごくたかかず)に播磨国竜野を与え
京極氏を大名として存続させました。
その後、讃岐国丸亀藩に移され、以降廃藩置県まで続きます。
忠高と初姫の間には 伊知子 (いちこ)という姫がいました。
伊知子は丸亀藩の家老と結婚し
男の子を授かります。京極高房 (きょうごくたかふさ)です。
数年後、
丸亀藩藩主、高和の 長男小法師 が幼くして亡くなりました。
跡継ぎを心配した高和は、幼い高房を養子に迎えます。
母、伊知子は5歳の高房と
別れなければなりませんでした。
伊知子は息子の出世の喜びと
別れの悲しみを「涙草」につづりました。
結局、跡継ぎはその後生まれた 京極高豊 (きょうごくたかとよ)となり、
高房は旗本として34年の生涯を終えました。
つづく。
松江城のお殿様 京極忠高
つづき。
松江城には 堀尾忠晴 の死去後、 京極忠高 が入りました。
松江城は宍道湖の東側・北岸にあります。
その宍道湖の西には斐伊川(ひいかわ)という川が流れていました。
斐伊川はよく洪水を起こす川でした。
氾濫の度に人々の命を奪い、
田畑を泥で埋め、家々を飲み込む
この川そのものが 「ヤマタノオロチ」 とも言われています。
忠高は斐伊川の洪水で
人々が苦しんでいることを知りました。
そして、川の流れを変えるという大工事を行いました。
元々、中国山地から日本海へ流れ出ていた斐伊川を
宍道湖に流れ込むようにしたのです。
しかし、この大規模な治水工事の完成を
忠高は見ることはありませんでした。
45歳で跡継ぎのないままこの世を去ったのです。
斐伊川の洪水から解放された人々は、
若狭国からやってきた殿様、京極忠高にちなんで
この工事でできた土手を 「若狭土手」と呼ぶようになりました。
つづく。
松江城には 堀尾忠晴 の死去後、 京極忠高 が入りました。
松江城は宍道湖の東側・北岸にあります。
その宍道湖の西には斐伊川(ひいかわ)という川が流れていました。
斐伊川はよく洪水を起こす川でした。
氾濫の度に人々の命を奪い、
田畑を泥で埋め、家々を飲み込む
この川そのものが 「ヤマタノオロチ」 とも言われています。
忠高は斐伊川の洪水で
人々が苦しんでいることを知りました。
そして、川の流れを変えるという大工事を行いました。
元々、中国山地から日本海へ流れ出ていた斐伊川を
宍道湖に流れ込むようにしたのです。
しかし、この大規模な治水工事の完成を
忠高は見ることはありませんでした。
45歳で跡継ぎのないままこの世を去ったのです。
斐伊川の洪水から解放された人々は、
若狭国からやってきた殿様、京極忠高にちなんで
この工事でできた土手を 「若狭土手」と呼ぶようになりました。
つづく。
松江城のお殿様 京極氏 出雲へ
つづき。
関ヶ原から9年後、
京極高次 (きょうごくたかつぐ)が死去し、
若狭国小浜藩 2代藩主として
京極忠高 (きょうごくただたか)が跡を継ぎました。
そして忠高は 徳川秀忠 の娘、
初姫 と結婚します。
ですが、2人の中はあまり良くありませんでした。
やがて初姫は病に冒され、29歳で命を失いました。
一方 忠高はその一大事を知ってか知らずか
相撲を見て楽しんでいました。
初姫の父、徳川秀忠は烈火の如く怒りまくり、
その葬儀を徳川家で行い、
京極家一同の参列を拒絶しました。
ちなみに、
京極高次の妻は初で
初の妹が江で
江は初姫の母親です。
さて、将軍家から怒りを買う忠高でしたが
この後、なぜか出世します。
断絶した堀尾家に代わって
出雲国松江藩に入ることになり、石高が増えたのです。
江戸時代に入り戦乱の世は終わりましたが、
まだ、不安定な世の中でした。
いつどこで反乱が起きるかわからない状態です。
幕府は関ヶ原で敵として戦った毛利氏を牽制するために
京極家を出雲に配置したのでした。
これは、これまでの徳川家に対する京極氏の働き振りが
評価された結果でした。
つづく。
関ヶ原から9年後、
京極高次 (きょうごくたかつぐ)が死去し、
若狭国小浜藩 2代藩主として
京極忠高 (きょうごくただたか)が跡を継ぎました。
そして忠高は 徳川秀忠 の娘、
初姫 と結婚します。
ですが、2人の中はあまり良くありませんでした。
やがて初姫は病に冒され、29歳で命を失いました。
一方 忠高はその一大事を知ってか知らずか
相撲を見て楽しんでいました。
初姫の父、徳川秀忠は烈火の如く怒りまくり、
その葬儀を徳川家で行い、
京極家一同の参列を拒絶しました。
ちなみに、
京極高次の妻は初で
初の妹が江で
江は初姫の母親です。
さて、将軍家から怒りを買う忠高でしたが
この後、なぜか出世します。
断絶した堀尾家に代わって
出雲国松江藩に入ることになり、石高が増えたのです。
江戸時代に入り戦乱の世は終わりましたが、
まだ、不安定な世の中でした。
いつどこで反乱が起きるかわからない状態です。
幕府は関ヶ原で敵として戦った毛利氏を牽制するために
京極家を出雲に配置したのでした。
これは、これまでの徳川家に対する京極氏の働き振りが
評価された結果でした。
つづく。
松江城のお殿様 京極氏 負けるが勝ち
つづき。
大津城の戦いは 毛利元康 が勝利しました。
京極高次 が城を明け渡したその日は
関ヶ原の合戦が起こった日でした。
元康は急いで主戦場に向かっていました。
関ヶ原に布陣した西軍は
参戦するはずの毛利元康軍1万5千を欠いて
やむなく開戦を迎えます。
そして、早朝に始まった関ヶ原の合戦は
半日で東軍が勝利します。
当然、元康は間に合いませんでした。
結果として、
高次は西軍1万5千の兵を大津城に引き付け、
関ヶ原の戦いで東軍を有利にさせました。
さて、その高次ですが
開城後、家康に合わす顔がないと
剃髪し紀伊国高野山に入ってしまいました。
戦いには敗北したものの、
戦略的に東軍の勝利の要因となった高次は
家康から高く評価されました。
家康は高野山の高次を下山させ、
褒美として若狭国小浜藩を治めさせたのでした。
つづく。
大津城の戦いは 毛利元康 が勝利しました。
京極高次 が城を明け渡したその日は
関ヶ原の合戦が起こった日でした。
元康は急いで主戦場に向かっていました。
関ヶ原に布陣した西軍は
参戦するはずの毛利元康軍1万5千を欠いて
やむなく開戦を迎えます。
そして、早朝に始まった関ヶ原の合戦は
半日で東軍が勝利します。
当然、元康は間に合いませんでした。
結果として、
高次は西軍1万5千の兵を大津城に引き付け、
関ヶ原の戦いで東軍を有利にさせました。
さて、その高次ですが
開城後、家康に合わす顔がないと
剃髪し紀伊国高野山に入ってしまいました。
戦いには敗北したものの、
戦略的に東軍の勝利の要因となった高次は
家康から高く評価されました。
家康は高野山の高次を下山させ、
褒美として若狭国小浜藩を治めさせたのでした。
つづく。