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松江城のお殿様 堀尾家系図

お久しぶりです。


ちょっと雰囲気を変えました。

気分的なものではなく、

必要にかられて、です。


作った系図が入りきらなかったんです。

これでも収まらないので

この文章で画像位置を調整しているのです。

シロウトまるだしですね。


では、本文です。どうぞ。




堀尾家の系図を作りました。


何だかこのブログのタイトルらしくなってきましたが、

うちのご先祖様とは全く関係ありません。


堀尾家系図3
















緑で縁取りした名前は

各エピソードにリンクしています。

よかったら見てやってください。



うっ!

前田茂勝 が 前田勝 になっとる!!

こいつの修正は手間取りそうな予感・・・。





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松江城のお殿様 吉晴の血 

つづき。




戦国時代真っただ中の頃、

月山富田城は尼子氏の居城でした。、

尼子氏は毛利軍との戦いの末敗れ、滅亡してしまいました。


尼子氏の家来の 河本隆任 (こうもとたかとう)は

落城後、因幡国の赤崎に移りました。


その後、河本家は刀を捨て大庄屋となりました。


その3代目 河本長兵衛 に嫁いだのが

堀尾吉晴 の孫娘、 菊姫 です。

謀反を起こし流罪にされた 堀尾河内守 の娘です。


菊姫の長男 長兵衛は堀尾姓を名乗り 堀尾長兵衛 として

海運業を営みました。


その港は菊姫からとり「菊港」と呼ばれ、

現在はその先東突堤に

「波しぐれ三度笠」というモニュメントが立っています。


河本家の住まいは

鳥取県指定文化財「河本家住宅」として

保存され年2回公開されています。






これで、堀尾家の話は終わりです。


他の堀尾一族は、後の松江藩藩主松平氏に仕えることになり、

現在、子孫の方々は

「堀尾史蹟顕彰会」という集まりを行っているそうです。



ここで読み物を紹介します。(敬称略)


同人誌「いちもん」 79号

『定家葛の咲く影に』中田薫




堀尾家の出来事が「小那姫」の視点で展開されています。

とても面白いのでぜひ読んでみてください。

自分は危うく落涙するところでした。


なお、このリンクに関しては

作者 中田薫様より、特別に許可を頂いています。

無断転載はお断りしますのでご了承ください。





つづく。・・・かな?どうしよう。






松江城のお殿様 忠晴の血 

つづき。



出雲国松江藩三代目藩主 堀尾忠晴 が死去することで

堀尾家は断絶となり、松江の堀尾時代は終わります。



では、堀尾家のお殿様の血筋まで途絶えてしまったのでしょうか。


忠晴には後継ぎの男子はいませんでしたが、

娘が近江国膳所藩の

 石川廉勝 (いしかわかどかつ)に嫁ぎました。


廉勝の祖父は 堀尾吉晴 であり、

堀尾家とは縁のあるお家でした。


廉勝は若くして亡くなり、

その長男 石川憲之 (いしかわのりゆき)が

藩主となり伊勢亀山城に入りました。

忠晴が間違って壊したあの亀山城です。
(松江城のお殿様 忠晴の不覚)


忠晴死去後、

家来たちは家名存続・お家再興を目指し奔走していたところ、

堀尾家の現状を憂い、

憲之の三男が 堀尾勝明 と名乗ることを決めました。

勝明は忠晴のひ孫にあたります。


石川氏の協力のもと、家来たちの願いが叶いつつありました。


しかし、堀尾忠氏、忠晴同様に勝明もまた

28歳という若さで後継ぎのないままこの世を去り、

堀尾家の再興は夢と消えてしまいました。



堀尾忠晴の血は石川氏の中に流れ後世に継がれています。





つづく。






松江城のお殿様 乱心した親戚

つづき。



堀尾忠晴 が「伊勢亀山城」と勘違いした

「丹波亀山城」の初代藩主は 前田玄以 (まえだげんい)で、

もともとお坊さんでした。


玄以が亡くなると三男の 前田茂勝 が跡を継ぎましたが、

領地もかえられ「丹波亀山藩」から「丹波八上藩」に移りました。


茂勝は熱心なキリシタンでしたので、

幕府からは何かと警戒されていました。


1608年。

やがて茂勝は藩政を省みず、

京や近江で遊び呆けるようになっていきました。


困り果てた家来たちは、何度も茂勝にまじめになるよう注意しましたが、

度重なる家来たちの言葉に逆切れした茂勝は

烈火のごとく怒りまくり、家来を次々殺していきました。


その家来の中には 徳川家康 と仲の良かった

尾池清左衛門 もいました。

これを知った家康は激怒し、前田氏を御家お取り潰しの上、

茂勝を捕らえ、その身柄を出雲国 堀尾吉晴 に預けました。


吉晴の次男、忠氏の妻は茂勝の姉だったのです。


すでに忠氏は亡くなっており10歳の三之助が松江藩藩主でしたので、

三之助に成り代わり、吉晴が茂勝の処遇を決めます。


茂勝は27歳で流罪となり、隠岐の島へ送られました。

その後島では改心し、キリシタンとしてまっとうに生き、

40歳でその生涯を終えたということです。





つづく。






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松江城のお殿様 騒動

つづき。



小那姫が自ら命を絶ったその直後、

隣国、伯耆国で騒ぎが起こりました。


伯耆国米子藩の藩主は11歳の幼い 中村一忠 でした。

一忠に代わり政治をしていたのは

徳川家から派遣された

横田内膳正村詮 (よこたないぜんのしょうむらあき) です。


村詮は家老として藩政に尽力しましたが、

やがて一忠側近の家来たちのねたみを受け、

暗殺されてしまいました。


横田一族は中村家に対し弔い合戦を挑みました。

一忠は鎮圧のため

米子城からほど近い月山富田城の

堀尾吉晴 に援軍を要請しました。


娘、小那姫の死を受け入れられずにいた吉晴は

その悲しみを断ち切るかのごとく、米子へと向かいました。



そして、中村・堀尾の連合軍は横田一族を抑え込み

この騒ぎを鎮めることに成功しました。


これを 横田騒動 と呼びます。




翌年、吉晴の息子忠氏が亡くなります。


相次いで子を失った吉晴は、絶望をはねのけるように

松江城の築城に力を注ぎました。



その築城が開始される頃、

今度は堀尾家で騒動が起こります。


家老の 堀尾河内守 (ほりおかわちのかみ)と

小那姫の姉 勝山 との間には

掃部 (かもん)という息子がいました。


忠氏が亡くなり、その息子 三之助 (後の忠晴)の幼さに付け込み

河内守は掃部を藩主にしようと企て、吉晴に持ちかけました。


ですが三之助は、幕府から正当な藩主として認められていましたので

吉晴はこの進言を棄却しました。



それならば やむを得ん、と河内守は

三之助をさらい監禁し、暗殺しようとしました。


しかし、その動きを見抜いた吉晴は

三之助を無事に救い出し、

謀反を起こした河内守と掃部を流罪と決めました。



隠岐の島へ流された2人は

切腹を申しつけられ自害してしまいました。






つづく。







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