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松江城のお殿様 堀尾家のお姫様

つづき。



堀尾忠晴 死去からさかのぼること、30年。


慶長8年のことです。

新天地、出雲国で領主として精力的に活動していた

堀尾忠氏 には妹がいました。


7つ年下の 小那姫 (こやひめ)です。


小那姫は16歳のとき重い婦人病を患ってしまいます。


吉晴と妻の 大方殿 (おおかたどの)は

名医を呼び、薬を各地から取り寄せ

神仏にまで救いを求めましたが、

小那姫の容態は悪くなる一方でした。


病との戦いはとても辛いものでした。

ですが、それ以上に両親、兄忠氏の不安げに見つめる顔が

なにより辛かったのです。


なれない土地で奔走する

父や兄たちの足を引っ張っているのでは・・・と。



そして、小那姫の病気は

耐えきれる痛みの限界を超えてしまいます。


ある月のない夜、心を決めた小那姫は乳母と共に

富田城を抜け出しました。


痛みによろめきながら山中を歩き、ある池にたどり着きました。


杖代わりに持っていた、つばきの枝を池のそばに突き刺し

こう言いました。


「私の命はここで尽きますが、

 私の霊を祀るものがあれば、永く婦人の病を加護いたしましょう。」


そして、池に身を投げ、20歳ではかない命を絶ちました。


乳母はここに庵をたて小那姫の魂を慰めました。



やがて、小那姫の つばきの枝に花が咲き実がつきました。

しかし不思議なことにその実は落ちることはなく、

割ることもできませんでした。



それから池で身を清めると婦人病が治ると評判になり、

乳母のたてた庵は

いつしか 「廿原(二十原)神社」と呼ばれるようになりました。




小那姫の廿原神社は島根県に幾つもあり、

今でも女性を病から守ってくれているのです。





つづく。






松江城のお殿様 堀尾家の終焉

つづき。



1633年、忠晴は35歳で突然この世を去りました。


松江藩は 忠氏・忠晴と二代続けて若い藩主を失い

頼りだった吉晴も松江城完成間際に死去しています。


跡取りがいなかった忠晴は、死の直前

次期藩主にいとこの 堀尾宗十郎 をたてましたが、

幕府はこれを認めず、堀尾家は三代で断絶してしまいました。



人々はこの堀尾家の末路を、

築城の際犠牲になった娘のたたりであろう、と恐れました。(松江城のお殿様 松江城の石垣)



堀尾吉晴 は松江藩開祖として尽力し

晩年松江城築城に情熱を注ぎましたが、その完成をみるとなくこの世を去ります。

吉晴は出雲国に来る前から隠居しており

家督を息子忠氏に譲っていまいしたので、厳密には藩主・城主ではありませんが

その功績をたたえ一般的には「初代」とされています。



堀尾忠氏 は吉晴の次男で(異説あり)

吉晴と共に雲州月山富田城に入りました。

松江城着工前に27歳で早世していますので、実際には富田城城主ですが

一般的には二代と呼ばれています。



堀尾忠晴 は忠氏の長男で亡き祖父吉晴の遺志を継ぎ、松江城を完成させます。

松江の基礎を築きますが、35歳で志なかばでこの世を去りました。

一般的には三代とされています。




戦国末期の混乱の時代から松江藩を立ち上げ

さまざまな事件・事故に遭遇しながらも

藩の地盤を固めた堀尾家の活躍はここで終わります。


ですが、ここに至るまでに

もう少し別のゴタゴタがありました。



つづく。






松江城のお殿様 忠晴の不覚

つづき。



大阪冬の陣で和解した豊臣・徳川両家でしたが

豊臣方の不穏な動きを知った家康は

豊臣家に大坂から立ち去るよう要求します。


これに激怒した豊臣方は

再び家康と戦うことを決めました。


大坂夏の陣です。


堀尾忠晴 はこの戦にも参加しました。


圧倒的な兵力で豊臣方を打ち崩し、徳川方は勝利しました。

大坂城は焼け落ち、豊臣一族は滅亡してしまいました。


ここから本格的な徳川政権が始まります。



それから17年後、34歳になった忠晴は

幕府から命令を受けました。


「亀山城を修理しなさい。」


ただちに、伊勢亀山城に向かい、修繕工事を始めました。

ですが、工事を行うに当たって天守閣がどうも邪魔だったので、

いったん解体することにしました。


順調に解体工事は進みました。

そんな中、忠晴は奉行と話しをして、とんでもないことに気がつきます。


幕府の命令は 「丹波亀山城の修理」でしたが、

忠晴は 「伊勢亀山城の修理」と勘違いしていたのです。


大急ぎで天守閣の解体工事を止めようとしましたが、

時すでに遅く、見事に瓦礫の山になっていたのでした。


その後、伊勢亀山城に天守がそびえることはありませんでした。

また、丹波亀山城は他の大名の手によって見事に修繕され、

後の世まできちんと残されました。




その翌年、堀尾家にある事件が起きるのでした。





つづく。







松江城のお殿様 大阪冬の陣

つづき。



大坂冬の陣、戦が始まりました。


堀尾忠晴 は大坂城の東、鴫野(しぎの)村に配置され

上杉景勝 の支援にあたります。


家康の命令を受け、景勝は大坂城を目指し兵を西へ進めました。

豊臣方の軍勢を蹴散らし進撃しますが

大坂城からの援軍に合流されると、一転し

上杉軍はズルズルと東へ後退していきました。


かなり押し戻されましたが

上杉軍の鉄砲隊が至近距離から一斉掃射にでます。

一気に豊臣方の勢いをそぎ、逆に追い返してしまいました。


一段落したかと思ったら

近くにいた 佐竹義宣 が援軍を求めてきました。


景勝は忠晴らと共に義宣の援護に向かいます。


佐竹軍も上杉軍と同じように一進一退の攻防を繰り広げていましたが、

この救援により豊臣方を敗走させることに成功します。


この戦いに勝利した上杉景勝は

家康から 忠晴と交代し休息を取るよう命じられましたが

景勝は断ります。

「勝ち取った陣地を他人に任せる気はない。」

こう言い放ちました。



さて、大阪冬の陣は

豊臣・徳川の和睦により終わります。


忠晴は佐竹軍を救ったということで、徳川秀忠に褒められました。

ですが、当の佐竹義宣は

「あれは作戦です。負けたふりで敵を引き付けていたのです。

 勝手に敵を追い払ってもらっては困ります。

 今度からそんなことはしないでください。」

と言ってきました。


作戦の邪魔をしたということで

軍奉行(いくさぶぎょう)から軍令違反を指摘されましたが、

忠晴は

「敵を目の前にしながら、誰の敵であるか問い

 それを見過ごす者が今までにいたでしょうか?

 私にはそんなことはできない。
 
 どうかわかってください。」

と言い返し、軍奉行を黙らせてしまいました。







つづく。




P4290017_convert_20110429191100.jpg



鴫野古戦場跡の碑 (撮影2011/4/29)

大阪市立城東小学校の校庭の端にあります。



P4290018_convert_20110429184843.jpg

寝屋川(旧大和川) (撮影2011/4/29)

鴫野古戦場跡から北、極楽橋より大阪城方面を望む。

この川の南(左)が鴫野、北(右)が今福です。

佐竹義宣は今福で戦っていました。



P4290023_convert_20110429190433.jpg

若宮八幡宮 (撮影2011/4/29)

佐竹義宣 本陣跡です。

極楽橋より西に歩き、裏路地の中にありました。










松江城のお殿様 三代目藩主

つづき。



若くしてこの世を去った息子忠氏の死に報いるため

吉晴は全精力を松江城築城に注ぎました。


しかし、1611年、69歳でその生涯を終えます。

その数ヶ月後、5年に及ぶ大工事を終え松江城は完成しました。


関ヶ原以降、隠居の身でありながら藩を支えてきた吉晴亡きあとは

正当な藩主、孫の三之介が表舞台に現れます。


三之助は 堀尾忠晴 と名を変え指導者として奮起するのでした。

若干13歳のお殿さまです。




そのころ、徳川家と豊臣家の間で

またしてもゴタゴタが起ろうとしていました。


家康は三男 徳川秀忠 に将軍職を譲りました。

これが豊臣方には面白くありませんでした。

次期将軍は 豊臣秀頼 のハズだったからです。

秀頼の母、 淀殿 は激怒しました。


お互いに相手を討つべし、と考えていた豊臣・徳川両家は

戦う正当な理由を探していました。



ところで、豊臣家は秀吉の供養として

神社やお寺の修理などを行っていました。

その中に「方広寺」というお寺がありました。


方広寺の釣り鐘にはたくさんの文字が打ち込んであり

家康は「国家安康」「君臣豊楽」という文字があることを知らされます。


「家康を切り裂き、豊臣が繁栄する。」

家康はこう読み取り、豊臣家は徳川家を滅ぼそうとしている、と

言いがかりをつけました。

仲直りしたければ、秀頼の母親の淀殿を人質に差し出して

秀頼は大坂城から出ていけ、という荒っぽい要求を突き付けました。


豊臣方はもちろん拒否。

徳川家の宣戦布告と受け止め、戦の準備を始めます。



そして、「大阪冬の陣」へと向かいます。

その戦に出雲国の若き藩主、堀尾忠晴も参戦するのでした。





つづく。