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月山富田城のお殿様 伯耆国への戦略的侵攻

つづき。


出雲国の東、伯耆国を治める山名氏は

守護の座をめぐって、内部が混乱していました。


対立する者が、それぞれ有力な国人を味方に引き込み

潰し合いが行われていたのです。


力をつけた 尼子経久 (あまごつねひさ)も

この山名氏のもめごとに首を突っ込みました。


経久の援助を受けた 山名澄之 (やまなすみゆき)は

見事、念願の守護となり反勢力を没落させます。


しかし、澄之は経久の力に頼りすぎました。

経久の存在は余りにも大きく、とても強い影響力を与えてしまったのです。


その結果、澄之は経久のいいなりになってしまいます。

守護代は経久の孫、 尼子晴久 (あまごはるひさ)が就き

ますます尼子氏の力が増していきました。


そして、尼子氏による伯耆国内の一掃が行われます。

対立する勢力を次々追放したり、仲間に引き入れたりして

尼子による統治の基盤を作り上げていったのでした。


守護代にやりたい放題されて、守護の澄之も面白いわけがありません。

伯耆国の西を尼子氏に抑えられると

尼子氏との対立を明らかにし、伯耆国の東の国人の支援に回り

守護としての地位を取り戻す動きを見せます。


しかし、その望みは叶わず無念のうちにこの世を去ってしまいます。

その後、尼子氏は残された澄之の勢力を削ぎ、

伯耆国一円を支配下に治めることに成功しました。



この尼子氏による伯耆国侵攻は

以前は、短時間に行われた電光石火の急襲作戦と考えられ

大永の五月崩れ (たいえいのさつきくずれ)と呼ばれましたが、

実際には先に挙げたような戦略的なものだったのではないか、とされています。




つづく。





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月山富田城のお殿様 経久の逆襲

つづき。


幕府にそむき続けた 尼子経久 (あまごつねひさ)は

主君、京極政経 (きょうごくまさつね)によって

追放されてしまいます。


居城も地位も何もかも失った経久は

1年もの間、諸国を放浪しました。


その後、旧臣 山中入道を訪ね

リベンジに向け密かな活動が始まります。


各地に散った家臣たちを探し、仲間を集めていきました。

結果、50数名が経久の元にそろいました。


しかし、富田城は難攻不落の山城です。

たった、これだけの戦力で立ち向かうのは、あまりもに無謀でした。


そこで、あるアイデアが生まれます。


経久は1人の男に協力を求めました。

その男の名は、鉢屋弥之三郎 (はちややのさぶろう)といいます。


弥之三郎は鉢屋衆(はちやしゅう)の賀麻党(かまとう)という組織を束ねていました。

彼らは芸能集団で、毎年元日に富田城で舞を披露していたのです。


弥之三郎は経久の申し出を受け、

富田城奪還のために戦うことを約束しました。


鉢屋衆は芸能だけではなく戦闘の能力も持ち合わせており、

経久には心強い味方となりました。




綿密な作戦を立て、やがて元日が訪れます。

富田城の恒例行事のため、鉢屋衆が城内に招かれました。


笛や太鼓を打ち鳴らし、賑やかに大手門から城に入っていきます。

その派手な衣装の中には、武器が隠されていました。


城内から見物人が集まってきます。

正月を祝って誰もが気を緩めていました。


スキを見て鉢屋衆が裏門を開けます。

潜んでいた経久率いる尼子勢が城内になだれ込んでいきました。

あちこちに火がのぼり、元日の富田城は大混乱に陥りました。


経久たちは女、子供関係なく蹴散らしながら突進し

あっという間に本丸にたどり着きます。


城主、塩冶掃部介 (えんやかもんのすけ)は

冷静に兵たちに命令を下し抵抗しましたが

やがて覚悟を決めると、自らの手で妻子を殺し

その後、本丸で自害してしまいました。



経久の作戦は大成功でした。

再び月山富田城に返り咲き、

活躍した鉢屋衆には城内に長屋を与えます。


その後、鉢屋衆は奇襲やだまし討ちなどを得意とする

忍者として尼子に仕えました。




余談ですが、風魔小太郎を棟梁とする風魔衆は

鉢屋衆と祖を同じくするそうです。




つづく。







月山富田城のお殿様 またまた執事をめぐる騒動

つづき。



佐々木道誉 (ささきどうよ)らの手によって

執事、斯波高経 (しばたかつね)は失脚しました。


次に執事職についたのは

細川頼之 (ほそかわよりゆき)でした。


道誉は頼之を執事に推した1人でしたが

この頼之の従兄である 細川清氏 (ほそかわきようじ)もまた、

道誉の謀略により失脚していました。




ある時、紀伊国で南朝方の動きが活発になっていました。

これを鎮めるために頼之は兵を送りますが、

失敗してしまいます。


3代目の将軍となった 足利義満 (あしかがよしみつ)は

やむおえず、あまり頼之と仲のよくない武将たちを

事態の収拾に向かわせました。


派遣された 斯波氏、土岐氏、山名氏 は

南朝方との騒動の中で

次第に頼之とも争うようになっていきます。


やがて、これらの「反頼之派」は

将軍、義満に頼之の討伐を願い出ます。


この動きに各地の武将たちも激しく反応しました。


その一人、道誉の3男、佐々木高秀 (ささきたかひで)が

頼之に対して挙兵。


反頼之派の軍勢は花の御所と呼ばれる将軍邸に集結、包囲してしました。

そして頼之の追放を迫ります。


この圧力に屈した義満は頼之の執事職を取り上げてしまいます。

頼之は屋敷に火を放ち

領国に逃れ、出家しました。


これを 康暦の政変 といいます。




つづく。






月山富田城のお殿様 佐々木氏

つづき。


承久の乱で成果を挙げた 佐々木義清 は

出雲国、月山富田城に入りました。


実はこのあたり、よくわかっていません。

義清が築城したとも伝わり、

また、承久の乱以前にやってきたとも言われています。


そして、これ以降の活躍も不明です。

跡を 佐々木政義 (ささきまさよし)が継ぎますが、

勝手に出家してしまい、

弟の 佐々木泰清 (ささきやすきよ) に託されます。


この泰清の代で出雲国の統治が確立していきました。

泰清にはたくさんの子がいました。

その子供たちは出雲の各地に広がり、さまざまな名字を名乗りました。


お き

隠岐氏  まず泰清自身が名乗りました。

      次いで長男・義重、 次男・時清

えんや
塩冶氏  三男・頼泰

と だ
富田氏  四男・義泰

さ さ き
佐々木氏  五男・茂清


湯氏    七男・頼清

ごとう
後藤氏  六男・基顕

たかおか
高岡氏  八男・宗泰

こ し
古志氏  九男・義信

こまざき
駒崎氏  十男・清村


こうして佐々木義清の子孫たちは

出雲地方を支配していきました。

この一族を 出雲源氏 といいます。




つづく。






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ホジクリ 戸籍簿

さて、ネタ切れの中なんとか記事になるもんはないかと

鼻をすすりながら考えてましたところ、

やっぱ、無いもんは無いです。


また、以前の記事からホジクリ返すことにします。



■ 戸籍簿の破棄について

この前、「古い戸籍簿は捨てられちゃうから、早めに取っておいたほうがいいよ。」

って言うことを書きました。

ちょっと突っ込んでお話します。


法律で『 除籍簿の保管期間は80年 』とされています。

● 除籍簿とは

  戸籍にあるお名前の方が全員除籍されているもの です。

  ◎ 除籍とは
  
    婚姻や死亡などで戸籍から除かれること です。


たとえば自分の場合、

現在、自分の名前はは親の戸籍にあります。(父親が筆頭者)

その後、自分と兄弟全員が結婚すると

新しい戸籍を作り、親の戸籍から除かれます。(除籍)


さらに時がたち、両親が死去すると

両親も戸籍から除かれます。(除籍)


残った人は誰もいないので、これが除籍簿となり

80年間、保管されます。


80年たつと、保管義務がなくなり廃棄が可能となります。



人口の多い都市部では、書類を保管するスペースが足りないので

じゃんじゃん捨てていくみたいです。

逆に人口の少ない田舎では、保管スペースに余裕があるので

80年以上経過しても、捨てられずに残っているということですね。



お金かかって、めんどくさいけど

取っておいたほうがいーんじゃないかなーって思うのは、

少数意見ですかねぇ?

やっぱり。







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